鳥の話
その1

自転車で郵便局へ行った帰り、細い川のそばを通っていたら、ばさばさっと音がして川鵜が1羽飛び上がった。川のすぐ脇の畦に着地したのだが、その口には今まさに捕らえた魚をくわえている。わたしがびっくりして自転車を止めたためか、1度魚が暴れて口から取り落としたものの、くわえ直してもう1つ向こうの畦に飛んで行ってしまった。
魚はハエ(ハヤというのか?)ではなかろうか、15センチ以上はあるようで、まだ体をばたばたさせていた。降り立った畦で、川鵜はじっとして魚の動きが収まるのを待っているらしい。カワセミのように叩き付けたりはしないらしく、魚が動くと首をかしげたりしてくわえ直すくらいだった。果たして長良川の鵜飼いの鵜のように、あんな風に魚を呑むのか確かめたくて、自転車を降り細い道に立ち止まったまま、対岸の鵜を見つめ続けた。
するとわたしの後ろから、さーっと烏が飛んできて、鵜の頭上をかすめ、同じ畦の上2m程離れたところに着地した。そして鵜の方は見ず、何喰わぬ顔であさってを見ながら、軽快なツーステップを踏みつつ鵜との距離を少しずつ詰める。烏という鳥は本当によく見ている。魚を奪いにきたのである。鵜はそんな烏の行動に対し、何の反応も示さない。体勢を変えるわけでもなく、距離を広げるわけでもなく、ひたすら魚をくわえてじっとしている。しばらくそばをうろうろしたあと、諦めたのか烏はさーっと飛んで行った。
まだ呑まないのか・・鵜のいる畦のもうひとつ向こうの田んぼで苗を植えている人、わたしが立っているそばの家の人に不審がられないか心配ではあるが、それでも鵜の食事風景がどうしても見たくて目を凝らす。
そうやってしばらく見ていると、また烏が、さっきよりもよりあからさまな嫌がらせ加減、鵜を転がさんばかりの勢いで飛んできて、3m程向こうに着地。近付いたりちょっと離れたり、反対側へ移ったりしながら魚を狙い続けるが、まるで鵜は意に介さない。クールに決めているのか、魚で頭がいっぱいなのか、なんとしてでも魚を口から離さんがために、それ以外の一切の動きを封じているのか。またも烏は略奪を諦め、飛び去って行った。そうか、烏ってこういうエサの取り方もするのだな。そういえばよくとんびと空中でケンカをしているな。それにしても鵜全然食べんなあ・・・
どのくらい見ていたのだろうか。いつまでも川向こうを見つめ続ける人間。その先には小学校もあるし、通報されないだろうかと案じられる。
とうとう鵜が、横しにくわえていた魚を縦にくわえ替え、あご(があるのかわからんが)をぐっと持ち上げた。うわっ!きたッ!セットポジション!魚の体はまだくちばしの先から半分くらい飛び出している。少し頭を戻したり、また少し上げたりしながら、ゆっくり、まさに呑んでいく。最後は喉とくちばしを一直線にし、んぐーと(かどうかわからんが)魚を臓腑へ送り込んだ。
すげえ・・・やっぱりあの食べ方だった・・そしてものすごゆっくりだった・・・
呑まれる直前も、まだあの魚は生きていた筈。胃の中でもまだ生きているだろうか。意識はモウロウとなっていたかもしれないが、それでも感覚の残っているまま、胃液で溶かされているのだろうか。
そんなことを思いながら、鵜の様子を見つめ続ける。ちょっと歩いてみたりするが、食後も実にゆったりしている。食べてすぐ運動せん方がええというものね。
できればどこへ飛び去るのかまで見ていたかったが、側の家の人の不審の目に加え、止んでいた雨も降り出したので、その場をあとにした。

鮎を食べてしまうと迷惑がられている川鵜。被害額は相当なものらしいので、さもありなんという感じはするが、文字通りの「鵜呑み」の瞬間を見せてくれたことには、少なからず感謝申し上げる次第である。

 
     

鳥の話
その2


南に向いてる窓を開けず、レースのカーテンを引きちぎらずに(from『魅せられて』)、なんとはなしに少し開けたら、庭先に薄い灰色をした小鳥が、ちょこっちょこっと歩いている。ベランダに雀がやってくることは時々あるけど、こんな所を歩いているとは珍しい。黒いくちばしで何かつまんでみたりしている。エサを探しているのだろうか。鉢ものが無造作に並べてある中なら虫もおろうが、こんなコンクリの上では難しいよと思ったそばから、小石をくわえ上げて、あっ違うか!となっている。
それにしてもなんという鳥だろうか。濃い灰色の尾っぽをひよっとさせる様子もあるが、その辺に居るセキレイに、こんな色のはおらんしなあ。よく風体を覚えておいて、あとで図鑑で調べようと思いながら見ていたら、チュイッチュイッと高い声で鳴いた。するとどこからか少し低めのチュイッチュイッが聞こえてきて、呼応するように鳴いている。もう1羽はどこだろうと思ったその時、小鳥のそばに、同じ位の大きさのセグロセキレイが舞い降りた。
はッ!子供か!
親鳥らしいセキレイは口に何かくわえている。2人は鳴き合いながら歩み寄ると、灰色の方が口をぱくっと大きく開き、もう1羽は、くわえていたものを1度落としながらも、拾って小鳥の口に入れた。その姿は巣でエサをもらうヒナそのもの。
果たして小鳥は、その小さな体を白と黒でパリッと決めた、水辺のMODEっ子、セグロセキレイの子であったのだ。
親子だったか・・
どこに巣があるのかわからんが、親はちゃんと自分の子供がどこにいるかわかっとって、よう見とるのだなあ・・自分の子供・親の声は、離れとってもわかるのだなあ・・・2人の様子を見つめていると、なんだか胸が熱くなった。
あの灰色がきれいな真っ黒の羽になる頃には、立派に自分でエサを探せるようになるのだろうなあ。

それはそうと、なぜ むね と打とうとするとかなりの高い確率で、ぬめ と打ってしまうのだろうか。困ってしまう。

 
     
鳥の話
その3

両親宅に今年も燕がやって来て、ピイピイやっていたのだが、どうも声が聞こえなくなった。燕どした?と尋ねると、もう巣立ったんじゃろうと母。そうか早いなあと思っていたのだが、その日の夜、チュチュチュチュ声がするので、巣が見える窓をそっと開けると、巣に大人と同じ大きさの燕が3〜4羽、足しか入ってないのでは?というような状態で、ひしめき合って入って(はみ出して)いる。羽もだいぶ黒々としているが、ああまだ子供なんだなあ、あんなに大きくなってもみんなで巣に帰ってくるのだなあと、驚きながらしみじみとした。
そして、まるで自分を見ているようで、なんとも言えない気分になった。

 

溺音

そんな熟語はありませんでしょうけれども、音に溺れる、まさにそんな2日間。

まずは、毎年真庭のエスパスセンターにやって来られる、新日本フィル室内楽アンサンブルのメンバ−4人による弦楽ミニコンサート。
その日の夜に岡山市内で行われるライブ会場に、早く行かないと車が停められなくなるので、ミニコンサートを諦めて、もっと早い時間に来れないかと、車で一緒に行く予定だった姉に言われたのを、即答で断り、11時前にエスパスへ。
子供は無料。近くで見られるよう、ホールではなくスタジオでのコンサート。クラシックの名曲からアニメのテーマ曲(みんなで合唱)子供の指揮体験コーナーなど、盛り沢山の1時間。一応知ってはいるけれど、実際目の前で演奏を聴くと、1本1本の楽器の音色の違いが、図形とか何か目に見える形で宙に漂っているように、はっきりとわかって、改めて、ああビオラってこんなにやわらかくてあったかい音なのだなあなど、それぞれの楽器の魅力を存分に堪能することができた。

美しい音色の余韻に浸りながら車に飛び乗り、両親の家へ。苦手なえんどう豆ごはんをお茶漬けにしてかっ込み、出掛ける母に頼んで、ついでに駅まで送ってもらい、津山線で岡山・山陽本線に乗り換え中庄駅へ。そこからタクシーに乗って約10分。やって来たのはコンベックス岡山。そう、続いて音に溺れるのは、半年前から待ちわびていたRADWIMPSのコンサート!先に来ていた姉と合流し、開場まで1時間程待つ。まずとにかく、すごい人。グッズ販売・トイレ待ちにも長蛇の列。元々人が多いところが得意でないのと、ほぼ毎日両手で足りるくらいの(片手の日もある)人にしか会わない生活のせいか、開演前にかなり参りかける。
開場5時、チケットの番号順に会場に入っていくが、改めてとにかくすごい人。2000人以上?全員入るまでに1時間以上かかり、開演6時を過ぎてしまった。広い会場に大勢の人、しかもオールスタンディングのライブは初めて。そして、クラシック以外で自分が行きたい!と思って来たコンサートは本当に久々。何の曲で始まるのだろうとドキドキする。いよいよ始まると、ファンタスティックな照明と大歓声と、下から噴き上げるようなものすごい熱気。(空調のせいもあると洋次郎さんは言っていた)1・2曲でもう全身びしょ濡れ。バスタオルを持って来るべきであった。わたしの周りの人、汗くさくてすまない!と思いながら、踊り、歌い、飛び跳ね、叫ぶ。ああもうなんて楽しいの!!自分でも驚きだったのは、開場前の時点で既に腹ぺこで、途中でぶっ倒れるかもわからぬと密かに恐れていたのだが、ライブの間もお腹と背中がくっつくぞ状態だったにも拘らず、ペットボトルのお茶1本で乗り切った上、あれ程声を出し、あれ程暴れまくったことである。アドレナリンだけで立っていたといっても過言ではない。「RADWIMPSの奇跡」である。
案の定、終わった途端、脳みそが酸欠になって目が回り、腰が曲がって、姉に掴まり15センチ程の歩幅でしか進めない、本来の空腹状態であるヨボヨボ化してしまったのである。ライブには、バスタオルと着替えと食料が必須であると強く思った。
しかしもうとにかく、信じられんぐらい楽しかった。帰り道、RADWIMPSは若いのにしっかりしとるなあと姉としみじみ話したことである。洋次郎さんがあんなに大きいとは知らなかった。
首振り過ぎて頭がもげたら姉に拾ってもらわねばならないと思っていたが、なんとか姉の手を煩わせずに済んだものの、家に帰っても下着はびしょ濡れのまま。相当なダイエットになったのではと思う。また、どこでどうなったかわからんが、左肘の内側の少し上に、赤黒く打ち身が出来ていた。

翌日は、前日ミニコンサートをされたメンバーを含む、新日本フィル室内楽アンサンブルの皆さんによる弦楽四重奏・木管五重奏の演奏、エスパス管弦楽団との共演で、ベートーベンの交響曲第7番を聴く。
この7番、『のだめカンタービレ』のドラマで使われ、ひと頃割と頻繁に演奏されもして結構有名な曲ながら、正直第2楽章以外あまり興味をそそられなかったのだが、今回、なんだよーええ曲ー!と、すっかり印象が変わってしまった。華やかさ・力強さ・軽快さ・切なさ・寂しさ・重たさ・迫力・疾走感、色んな要素が次々出てきて、聴いていて体が動いてしまう。技術的にも表現する上でも、とても難しい曲なのだそうだが、ど素人な上ほぼ好きか嫌いかで生きているわたしには、ただただ素敵!かっこよい!という感想しか出てこないのだけれど、7番に興味がなかった時よりも、自分の心に何かしらの色が加わったのは間違いないと思う。
ところで、クラシックのコンサートに、RADWIMPSのライブ程の人が入るというのは難しいのだろうか。会場で跳ねたり叫んだりはできんけれども、わたしはRADWIMPSと同じくらい、7番で興奮したけどなあ。確かに眠くなる時もあるし、わたし自身後半殆ど寝ていたコンサートも実際ある。旋律の美しさに眠くなるのは自然であるし、心地よくなって寝てしまってもよいと思うのだが、クラシックは眠くなるからと遠慮する方も多い。寝るというのは退屈だからなのかなあ。お金払って入って寝たくないということなのかなあ。演奏している人に申し訳ないと思うのかなあ。それとも盛り上がって踊りたいのか・・。好き嫌いがあるので仕方ないけれど、あんまり演奏に感激してしまったので、沢山の人に聴いてもらえたら嬉しいなあと、そんなことを考えた。

その夜も宴が開かれ、喉が潰れてしまう程、更に溺音したのでありました。

 

色んな楽器、色んな音楽に触れられる、こんな贅沢な機会があって、こんな豊潤な時間を過ごせることを、改めて幸せに思った2日間。
そういえば、音楽を聴いていなくても、鳥の声とか雨の音とか風の音とか、風にめくられるベランダの浪板のものすごい音とか、好きな人々の声とか・・わたしの周りには音がいっぱいあるわけで。
これからも、素敵な音に溺れて、暮らしたいものでございます。

 
 
     

 

 

 


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