必要な
もの

秋から冬、花の時期を終えた庭の鉢たちを見るにつけ、ああまた枯らしてしまったと毎年思う。
比較的強いわすれな草やふくろ撫子は、色んな所に種を飛ばし、年が明ければ全く別の鉢などから芽をのぞかせてくれるので割と安心していられる。あちこちから出た芽をせっせと1つの鉢に集める作業もまた楽しからずやというものである。
しかし、株分けや挿し芽などで我が家へやって来た花たちは、花が枯れ葉が落ち、茶色の茎だけになってしまうと、やってしまった・・と思うのである。きれいな花だったのになあ・・強い花だと言われたのになあ・・・在りし日の姿を思いながら、切ない気持ちで鉢を見遣る冬の日々。
それが3月頃、或る日突然枯れた茎の根元から小さな緑がのぞいているのを見つけたときの喜びといったら!
生きていた!!
その花が、木が、絶えていなかったという純粋な嬉しさと共に、なにか救われたような気持ちにもなる。
木槿・磯菊・乙女ギボウシ・尾車草にホトトギス・・4月に入って気温が上がるにつれ、ぐんぐん成長していく様子に胸躍らせる毎日である。
加えて今年は、母から譲り受けたのを挿し芽にして1鉢増やしたローズマリーが、この春初めて花をつけた。今まで何年も咲かなかったのが、去年初代の方に花がつき大喜びしたのだが、今年は両方咲いたのである。よそのお家のローズマリーは、葉が見えない程薄紫の花をびっしりつけて、風にわさわさ揺れている。一方我が家は1鉢に4〜5輪。それでも大変嬉しいのです。
また、同じように2鉢ある木瓜も、これまた同様に長い年月1輪の花もつけず、なんなら殆ど枯れたようにさえなったのが、去年1鉢に2・3輪の花が咲いて躍り上がって喜んだのだが、またその鉢に今年も花が付き、しかも数が増えたのである。庭先へ出る度あな嬉しやと愛でていたのだが、ある日洗濯物を干していたところ、もう1鉢の方にも1輪花が咲いているのに気付き、思わず声をあげてしまった。

何がどうしたというのだろう。一体何の効力だろう。色々思い巡らしてみるに、どうも考えられるのは液肥をあげたことぐらい。
畑の作物程、施肥について気を配ることがなかった鉢もの。やはり光と水だけでなく、栄養も必要だったのかと今頃気付く愚かな家主。
ふと、やたら映画を観る最近の自分と重なる。
目下栄養補給中なのかもしれないね などとええ具合に理由付けする、自分には甘い家主である。

     
あはれ
ダイエツト難民

外でごはんを食べる時、遠慮なんてしたくない。
減量中であろうと、たまにしかない人との食事は楽しみたい。
ダイエット中なんですと言いながら、ビュッフェ形式で6皿くらいはおかわりするので、大抵信じてもらえないが、沢山食べたら家での食事で調整をする。

が、減らない。

調整が上手くいっていないのか、ただの微調整に過ぎないのか。同級生に「夜、キウイ7個で我慢することもあるんで」と努力しているアピールをしたところ、「え、7個って多ゆうない?」と言われてしまった。11個の日もあったのだが、言わなくてよかった。
体を動かしてはみるが、運動と呼べるものではないのもあるのだろう。

ある日、朝だけ沢山食べて痩せたという人がテレビに出ていたのを見て、ほう と思った。朝、昼の分まで食べる。1度に食べる量には限りがあるので、朝と昼1食ずつ食べて2になるところを、朝昼合わせて1.5なら、量を減らせるということではないか。早速やってみることにした。昼になっても空腹感を感じない。ごはんを作るために朝からやっている作業を中断しなくていい上に、お昼を食べると眠くなって効率が落ちてしまっていたのが、ない。あら、なんかよいではないの。手応えを感じて続けてみていたのだが、2日か3日か経った或る日、お風呂へ行こうと靴下を脱いだところ、未だかつて見たこともない程足がぱんっぱんになっていた。足首と靴下の履き口が当たっていた部分との間が、ちょっとやそっと揉んだだけで元に戻るような状態ではない程むくんでいるのである。何だこれは。木材・・?恐怖を感じながら、お風呂でひたすら足首を揉む。普段はしない椅子での座り仕事をしたからだろうか。マッサージをし続けても、木が硬いハムになったくらいの変化しかない程のむくみ。それが次の日も起こり、そればかりか肌も荒れ、吹き出物が出現。なんなのだこれは。どうしたことだ。いやだ!なにこれ!混乱した頭と丸太になった足首を抱え、大いに狼狽る。
次の日、朝昼どっちも食べるに戻す。椅子に座っても正座するようにはしたけれど、それから木のように足がむくむことはなくなった。吹き出物は、昼の分まで腹を満たそうと、頂き物のお菓子をもぐもぐと食べたためではないだろうか。

かくして朝昼合併食期間は数日で終了。むくみが合併食のせいだったのかどうかは不明だが、着実に地道にやれということなのか、とりあえず動け!ということか、はたまたもう諦めろということなのか。

元に戻して割と安定し始めたかと思うと、あまりにキャベツが美味しすぎたために、大量に食べて気持ち悪くなり、晴天の午後を無駄にするなど、只今絶賛迷走中であります。




 
     
それでいいのか
交差点

よく通る大きな道の、とある交差点に面した壁に或る日看板がついていた。割合大きな看板に、何やら文字が書いてある。横を通り過ぎざまその文字を読んで慄然とした。

「歩行者優先
 渡らせてくれてありがとうございます 」

・・・なんと?

そこは変形T字路のような交差点で、Tの部分が真っ直ぐではなく、牡牛座のマークの上部の如く下に弧を描くようにカーブしている形で、ゆるい消防署の地図記号みたいになっている。横断歩道はTの上の部分に当たる道についており、信号もある。おそらくTの下部分に当たるの道の下方から走ってきて右に曲がる車が、横断者に対して不親切な運転をするために設置されたのではないかと推測されるが、それにしても渡らせてくれてありがとうとはどういうことか。

いつの頃からか、公共のトイレに「いつもきれいにご利用いただきありがとうございます」などという文言を見るようになったけれども、これは使う人全てが当然きれいに使ってくれるという前提で、性善説にのっとり先回りして御礼申し上げる形で、使う前から、わたくしどもはあなた様がきれいに使ってくださることをよくよく存じ上げておりますよといった具合に、相手の中の良心をくすぐることで、相手に悪イこたあできねえなあという気持ちにさせるという、下手に出ながら大変穏やかに脅しをかけるというスタイルであり、どうやら功を奏しているのだろう、今やどこででも見られるようにはなったけれども、この交差点にそれを用いるのは果たして正解だろうか。

公共の施設を美しく利用するというのは主にマナーの問題であろうが、この交差点の場合は、道路交通法で定められたルールである。横断中の歩行者が優先されるのは当然の規則なのであって(いくら法で守られているからといって、お年寄りでも足が悪いのでもないのに、だって青じゃんとでかい顔をして交通量の多い交差点の横断歩道をちんたら渡る歩行者は大嫌いだが)、できれば渡らせてあげましょうねレベルの話ではない。それを犯せば何らかのペナルティが科せられる類いの決まり事である。
北風と太陽の「太陽」作戦だろうか。褒めて伸ばそうの精神だろうか。トイレを汚して立ち去ったとて、すぐさま命を落とすことはまずあるまいが、横断者無視して交差点に車が突っ込もうものなら、即座にその場で何人もが明日の日を失う可能性を孕む、非常に緊迫した状況ではないか。そんな悠長でよいのかなあと思えるのである。
看板が付くということは、よほど危ない場面が多発しているのではないのだろうか。ならば、必要なのは注意喚起よりも警告なのでは?横断者を妨害した際の罰則を書くとか。もうストレートに「止まれ 歩行者渡らせろ」とか。「失われるのは、誰かの命とあなたの人生」・・・こわいな。

標語コンクールみたいになりましたけど、悲しいことが起こらぬように、みんな安全運転をしよう、わたしの口から聞くに耐えない罵詈雑言が飛び出すような、酷い運転をなくしましょうということですよね。運転下手くそなおまえがいちばん気を付けろという話ですけどね。自覚があるので気を付けますよ。
お互いに、どうか元気で、お気を付けて の精神ですよね。

 

 

 

     

 

 

 


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