現代っ子

12月半ばにも拘らず雪が積もった日、もこもこに着込んで大根を採りに行った。葉っぱが凍って、引っ張ると全部取れてしまい、抜くのに難儀した。洗って持って帰るのに、手袋が泥だらけになったので素手で洗う。雪が溶けてたまった水はまあ冷たくて冷たくて、6本洗い上げた時点で意識が飛びそうになって慌てた。
昔の人はこんなの当たり前だったのに、すっかりヤワになってしまったことであるよと恥ずかしくなるのであった。

 


 
     
 

手間を惜しんでおいしく頂く

実と皮の間に栄養があるよなんて言われちゃあ、ただでさえめんどくさがりで、できたけ手間を減らそうとするわたしには願ったり叶ったりなわけで、基本的に野菜の皮はむかない。
里芋ももさもさした茶色の毛をたわしでこすって落ちるだけ落としたら、そのまま使う。が、里芋と大豆ののり巻き焼きというような料理を見つけ、久し振りに皮をむいた。
皮付きのまま茹でて、やらかくなったらくるっとむく。ぱきっと皮が裂けると、くにゅとした実が現れる。わたしはこの感覚が大変好きで、なんならこれを自分の口の中で、食べる時に味わいたいがために皮をむかないと言ってもいい(これはじゃがいもも同様で、おでんなんぞにしたら一気に5〜6個食してしまう。危険)。
件の料理は、皮をむいた里芋と水煮大豆を潰し(大豆は作りおきの黒豆ペーストで代用)焼き海苔で挟んでフライパンで両面焼くという手順。洗ったりむいたりしにくい小さい芋も無駄なく使えるし、やらかくておいしい。
先日里芋と蛸の煮いたのをいただいたのだけれど、大層おいしくて感激した。
里芋は手がかゆくなると敬遠されがちではと思うが、そんなことまるでどうでもよくなる、冬野菜筆頭格の旨さでございます。

 
     
 

 

腹の中では皆兄弟

年末年始、帰省したり親戚が集まったりで、いとこに会われた方も多いのではないでしょうか。

ところでわたくし、納得いかないことには一切心が動かない性分である。
かぼちゃと小豆のいとこ煮という料理。なぜかぼちゃと小豆がいとこなのか。なぜ人参とかさつまいもとかでなく小豆なのか。なぜ大豆や黒豆ではなく小豆なのか。成分的に関係性があるというのか。納得がいかないために、生まれてこのかた1度もこの料理を作らなかった。
それが、1月11日の鏡開きにぜんざいを作ろうと思った際にふと、ついでにこのいとこ煮を作ってみるかという気になった。
ぜんざいといっても甘いのが苦手なので殆ど甘くはしないから、その残りを煮いたかぼちゃと合わせるという寸法。いつもの通り煮いたかぼちゃに、ほぼ汁気の残っていないぜんざいの残り小豆を加え、一緒に少し火を通す。

旨かった。
あんこやぜんざいを滅多に作らないわたしにとっては、小豆活用法の1つになるかもしらん。
しかし、やはりかぼちゃと小豆のいとこ関係には納得いかないし、一体誰がかぼちゃと小豆を合わせようと思って、いとことか言い出したのか、こういうことを研究する方もおられるのだろうなあとか、なんぞかんぞと考えさせられる料理であった。

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

     
 

 

 
 

 


Copyright © 2009 matsuda shiro All Rights Reserved